本日8月7日版CORRIERE DELLO SPORTからネスタ記事
*********************** ネスタがミランへ ローマ・ミラノ間 そのビジネス&ミステリー 歴史的電撃移籍; 30,2Milioni(Euro) アレッサンドロ・ネスタ:ロッソネーロのディフェンスに欠けていたエース(No.1)の獲得に関してミランが公表しているラツィオへ支払われた額。 18歳 1993年にネスタはAチームへ加入。Serie Aデビューは1994年3月13日、Udinese - Lazio 2-2、ベンチ(監督)にはゼーマン。その6日後には18歳の誕生日を迎える。 (訳者注:ということは、実際は17歳でのデビュー) 193試合出場 1993~2002年の間に、ネスタはラツィオのMagliaで193試合を出場している。記録されているゴールは1。ラツィオと共に彼は2000年にダブル優勝(スクデット&Coppa Italia)を果たしている。 契約期限2011年 ネスタはミランとの契約を2011年まで更新。 ミラン移籍は2002年、この契約を全うすると、彼はロッソネーロで9年間プレイすることになる。 チャンピョンズ優勝2回 アレッサンドロ・ネスタはミランのMagliaを着て2度のチャンピョンズ・リーグ優勝を果たしている。まず2003年に対ユヴェントゥス、2度目は2007年に対リヴァプール。 2002年9月1日 私たちはこう語ろう:《ネスタ、ロナウド、クレスポが、たった一晩のうちに117Milioniで移籍をした日》 センセーショナルな一日、これを忘れるというのは非常に難しいだろう。何よりはじめに:アレッサンドロ・ネスタが30,2Milioni Euroでミランに。ロナウドが、酷く衰弱をもたらすマラソンのような状況の後に45Milioniでレアル・マドリッドに。Fenomeno(怪物)のいなくなったインテルは、ラツィオから22Milioni Euro+紙上では20Milioniと判断されたベルナルド・コッラーディとの交換でエルナン・クレスポを獲得。これらのすべてには、その前の金曜の夜に起こったマルコ・ディ・ヴァイオのユーヴェへの移籍、続くアドリアン・ムートゥのパルマへの移籍は加えられていない。要するに、この1日がイタリアのカルチョメルカートに大きな衝撃を与えたのだった。巨額のオファーなど、貧困な金庫にはとても無理だと嘆き、獲得額を釣り上げるのは抑えよう、そんな贅沢すぎる契約にサインするのはやめようではないかと訴えていた者たち(特にビッグクラブの権力ある幹部たち)・・・それがたったの48時間にして、すべて忘却の彼方へ。 ネスタ、ミラン移籍へクライマックスの数日: 2002年8月23日 「ネスタ?不可能だ。ミランはネスタを獲得しない。」 (リミニのミーティングにて、シルヴィオ・ベルルスコーニ) 2002年8月30日 「たまらない!すべてをはっきりしたい。僕はどこへ行くのか言ってくれ。」 (Formelloにてアレッサンドロ・ネスタ) 2002年8月30日 「私の希望はアレッサンドロがラツィオに残ることだ。」 (Formelloにて当時監督ロベルト・マンチーニ) 2002年8月31日 「カピターノ、カピターノは一人しかいない!」 (FormelloにてTifosiのCoro) 2002年8月31日 「金なんか何の関係があるんだ?金の話じゃない。皆、落ち着いて考えてみよう。僕は契約にサインをし、ラツィオを救うんだ。それがわからないのか?」 (Formelloにて、Tifosiに向けアレッサンドロ・ネスタ) 2002年8月31日 「本日正午前、アレッサンドロ・ネスタのACミランへ30,2Milioni Euroでの移籍が決定」 (S.S.Lazio公式サイトにて) 2002年8月31日 (意訳)「ネスタ?私はガッリアーニに多大な援助を提供した(つまりポケットマネーを出した)。」 (デンマークにて、シルヴィオ・ベルルスコーニ) 2002年8月31日 「ネスタ?クラブの採算を立て直すためには避けられない犠牲だった。アレッサンドロは移籍を望んでいた、これははっきりしている。頭の中はミラノに向いていた。しかし彼との関係はこれからも続くだろう。」 (ローマにて、当時ラツィオ会長セルジョ・クラニョッティ) (訳者注:この↑発言はネスタの本心と逆であり、会長はTifosiの怒りの矛先を彼へ向けるように画策。このためネスタにもTifosi Lazialiにもつらい傷が残った) 2002年9月1日 「ディフェンスにネスタが加入することで、アンチェロッティは是非ともトップ(優勝)にたどり着かなければならない。または少なくとも2位に。」 (ミラノ、アドリアーノ・ガッリアーニ) 2002年9月1日 「ラツィオは永遠に僕の心に残る熱い思い。クラニョッティ?彼のおかげで僕はローマに勝てた。しかし今はミランのことを考える:僕を歴史の中に導いてくれるはずだ。」 (ミラノ、お披露目のHotel Galliaにてアレッサンドロ・ネスタ) ネスタがラツィオへ。ひとつのビジネス。ひとつの取引。メルカートの衝撃。ミステリー。裏切り。犠牲。半分だけの真実。半分の嘘。 それらのすべてが少しずつ。 これにはあの年に戻ってみなければならない。2002年、夏の終わり。5年前。まるで紀元前のようにも思われる。ラツィオは、その記憶すべきひとつの時代を終わりつつあった。あらゆることが起こった、しかし、それはあまりにも早く起こりすぎた。スクデット、Coppa delle Coppe、株式市場への参入、イタリアを手にし、ヨーロッパが新しい庭となった。ラツィオは未来、しかし過去があとを追ってくる。クラニョッティの時代には借金にまみれていた。公平無私の財務家、彼はこう呼ばれていた。最初はそれは賞賛を意味し、今はちがう、それは罪である。ネスタを売却、なぜなら、そうするしか道が残されていないから。30Milioni Euro以上の額。ネスタは犠牲に。ラツィオを生かしていかなければならないのだ。クラニョッティはその1年後にクラブを去る、巨額の負債を抱え、訴訟に追われながら。あのラツィオは、そのようにしてその走りを止めた。 その頃アレッサンドロ・ネスタは26歳、技術的にもスタイル的にも熟しきった、イタリア最高のディフェンソーレ。ラツィオは彼の家。そこに彼は18年いた。GiovaniliからAチームまで。トッティがローマのためにいたように、ネスタはラツィオのためにそこにいた:一人の息子。Il Migliore(最強の選手)。取引が進められる=複雑化し暗澹とした中、彼はそれを早く終結したいと望む。彼の人生にとって一回り大きなゲームの中へ飛び込みつつあることを予感したのだろうか。移籍の決定的なその週に、彼は以前から担当していた代理人に別れを告げる。Dario Canovi。そしてGeaへ身を託す。議論はもちろん沸きあがる。これがおそらく放出の鍵となったのか。ラツィオを離れるというのは彼には大きな痛手、しかし、こうするしか、他に行き場が無いことをわかっている。彼はファーストクラスで飛ぶ、がラツィオはそうではない。ミランは、彼が夢見ていたものをすべて与えることができる:桧舞台、まさにそれを。 ミランはその頃、最終試合でぎりぎりになんとかなった酷いシーズンを終えたばかり。トルコの魔術師Fatih Terimとスタート、カンピオナート開幕2ヵ月後には解雇、締めはCarlo Ancelotti:4位、チャンピョンズリーグ予備戦参加という結果。アルベルティー二最後の年、ピルロの発掘、インザーギの最初の年。ネスタと共に=2002年の夏=リヴァウドとトマッソンがやってきた:2人目(トマッソン)はGood。ネスタはディフェンスに欠けていた男、チャンピョンズ・リーグにおいて、Old Traffordのユーヴェとの決勝戦にたどり着いたのは彼のおかげである。マンチェスターでは4番目のPKを蹴る、重いPK、セードルフ、ザラジェータ、カラーゼ、モンテーロらが失敗した後の悪夢を一掃。そのすぐ後にデル・ピエロがやるべき仕事を決める、しかし、歴史に残る画像は、あのシェヴァのものとなる。対ブッフォン:Old Traffordは息を止め・・・そしてフラッシュが機関銃戦のように焚かれる。 Canovi:彼は16歳で、すでに一人前のカンピオーネだった 彼を発掘し、最初の代理人となる。その後二人の道は分かれる:「彼はミランへ行く前に私から離れた。しかし後腐れなどは無い」 予告もなしに電話が鳴る。ダリオ(Canovi)は受話器を取る、何も知らずに。電話の向こうでは微かに戸惑った声。「アレッサンドロだ。僕はGeaへ移る。」(訳者注:Gea=代理人グループ、当時の大手。がCalciopoli大スキャンダルの根源でもあり、昨年Geaは解散。ネスタを担当していたのはあのモッジの息子アレッサンドロであった)。トリエステの弁護士(Canovi)は腰掛けたままZeno(古典の舞台人)のようにタバコに火を点け、そして彼との出会いの頃へ思いを馳せる。「私は彼を説得しようともしなかった。」 ネスタは、ラツィオを離れる前にカノーヴィに別れを告げる。たったひとつのジェスト(電話)で、彼の青春時代を後にする。「まず、それを私に伝えてきたのはアレッサンドロの兄、フェルナンド。その頃私たちは共に仕事をしていた。ネスタはその日のうちにBanco di Roma(ローマ銀行)に呼ばれた。一瞬にして私は何が起こるかがわかったのだ。」(訳者注;Geaはローマ銀行会長とも強く関係していた)その後のストーリーを想像するのは容易だ。「それがネスタをGeaへ導く手段だった。プレリュード、そして彼の(ラツィオからの)放出。クラブが彼の売却を望んでいたのであり、ラツィオ自体が、彼をバンディエラ(象徴)と見なしていなかったのだ。もし今ローマがトッティをメルカートに出したら、おそらく獲得のために並ぶクラブは20はあるだろう。」 ネスタはミランへ移籍する。「お互いの気持ちの繋がりや個人的な苦いしこりは別として、彼ほどのカンピオーネにしっかり稼がせるのは難しいことではなかった。」それもあって、彼の移籍に関する基本的な額は彼を唖然とさせた。「彼にはラツィオと5年間32Miliardi(リラ)の契約でサインをさせた。率直に言って、これ以上を望むのは無理だっただろう(つまり自分の力で最高額の契約を成功させている)。」カノーヴィは、それから数ヶ月の間に更に驚かされることになる。「ネスタ放出の直後に、信じられないことにラツィオは、すでにCirio事件で明らかになっているように、ネスタのミランへの移籍のためにGeaに豊潤な手数料を支払っている。不可解だった。何故なら、ネスタのためだったらどんな売り手にとっても、テーブルに向かい合い交渉するのは決して困難ではなかったはずだから。」 カノーヴィにとって、ネスタは代理を務める相手というよりももっと大きな存在だった。「彼を初めて見たのは、その頃非常に強かったラツィオのPrimaveraを観戦していたとき。彼は16歳で、他にはディ・ヴァイオやイアンヌッツィがいた。サンドロに関して、私の胸を射止めたのはその振る舞い。その頃未成年だったために就業契約を交わせない彼に、私はある種の紳士協定を申し出た:『もし他の代理人がやってきたら、君は私のことを代理人だと言うんだよ。どちらにしても、君のご両親と話をさせてくれ。』『それは絶対にノーだ。僕のことは、僕が決める。』彼はそう答えたのだ。」 実存主義的態度。「ネスタはイタリアが生んだ、史上最強のディフェンソーレの一人だが、バレージレベルのリーダーにはならなかった。ピッチの内外でその存在価値が語られていたような。彼がそんなリーダーにならなかったのは、一つには彼の性格が内気なものだから。彼は心の底で、リーダーになりたくないと考えているのだろう。」その後、彼らはもう会うことはなかった。「あれから私たちは一度もすれ違ったことも、話をしたこともないのですよ。全く一度も。空港や、スタジアムのロッカールームや、待合室など、そのどこでも・・・出会いはゼロ。」 どちらにせよ、後悔は無い。「そして恨むことも無い。そんな気持ちにはなれない。少年の彼と出会ったことを忘れることはできない。もちろん、出会ったばかりの頃の感情やお互いの気持ちの強い繋がりはもはや無い。これからも決して。」 時に、風は季節だけを吹き消してしまうのではない。 訳者追記: Geaでネスタを担当したアレッサンドロ・モッジは数年前、「私にとって最も大きな仕事が、ネスタのミラン移籍だった」と残している。 Zefiro Home
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| 2007-08-08 01:01
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