Gazzetta dello Sportサイト記事から:
マンマ・インザーギ「ピッポじゃないわ、私にはフィリッポ」 欧州の記録男のマンマが、カンピオーネになった二人の息子を語る。 「フィリッポはシモーネを守ろうとする気持ちが強いのです。それに叔父としては素晴らしい。キャリアが終わった後、二人は一緒に仕事してくれるといいのだけど。」 **************** San Nicolo'(ピアチェンツァ)、2008年2月8日。大衆とプライベートの違いは、その名前にある。世界中にとって彼はピッポ、またはSuperpippo:これは表舞台に現れる、名の知られた姿。彼女はしかし、彼を常に「フィリッポ」としか呼ばない。30年ほど前に彼を叱っていた頃とまったく同じ:「まず宿題をして、それから広場にボールで遊びにいくこと」 彼女はSignora Marina Inzaghi、欧州のゴール記録男の、あらゆる得点ランキングのプリンスのマンマ。 「私にとってはフィリッポ、それだけ。人々にとっては、観衆やTifosi、チームメイト、お友達たちにとってもピッポ。でも家族の中ではノー。」 これが、表舞台のストーリーとより内輪な日々を隔てる境。おそらく、それがよりノーマルなもの。 偽証明書 Signora Marinaはピアチェンツァから数キロ、San Nicolo'の大きな家の中で思い出に囲まれ暮らしている。1階には、すべてをフィリッポとシモーネ、ゴール兄弟のために捧げた部屋が。巨大なコラージュが壁中を埋め尽くしている:それぞれの写真、新聞切り抜き、賞牌、トロフィーの数々。そして箱、小箱、大箱に写真が山のように:おじいちゃんたちがKodakの簡易カメラやポラロイドで撮ったのから現在のプラスチックシート処理を施したショット至るまで、スタジアムや、色とりどりの光に輝くもの、笑顔でポーズを取ったり、白黒だったり。これらのことも、一人の普通の少年がカンピオーネに遷り変わっていくしるしを表している。 「でもあの子は、フィリッポはいつも同じ。カルチョはゲームだと、常に繰り返しているのです。もちろん、今は彼の専門職になっている、でもピッチの上ではいつまでも、San Nicolo'で7歳の時にデビューしたあのスピリッツのまま。あの時、なんと登録ができないはずだったのですよ、何故なら(年齢が)小さすぎたから:チームの役員が証明書を書き換えて、彼をフォーメーションの中に送り込んだのです。あのときとても大切な試合があって、それはBorgonoveseとのある種デルビーのようなもので:フィリッポはFWを務め、勝利のゴールを決めました。私には、あのエピソードの中に彼の歴史があったと言えますね。」 広場のボール なんと初めの頃、彼はGKもやらされていたのだ。 「えぇ、そう。私の夫GiancarloはLibertas Piacenzaでプレイしていて、フィリッポを連れていくようになりました。彼はゴールの前に立たされ、でもそれをやるのはとても嫌がっていた。そのうちすぐにアッタッカンテになりました。彼より大きな子供たちが家へ呼びにやってきて、彼を欲しがっていたのです。何故なら必ずゴールを決めるから。彼は広場へ行き、いつも言っていました。「シモーネもプレイさせるなら、君たちとやってもいい。」彼らはどんなときでも一緒でした。フィリッポは今でも弟に対してとても守りの気持ちが強いのです:まさに長男、責任感を強く持っている。」 Signora Marinaは息子たちへのおよそ所有欲にも近いその愛を語る。 「フィリッポは私が22歳のときに生まれました。私の母や子供を預かってくれる女性に助けを借りながらしばらくは仕事を続けていました。でも私の中でジェラシーが燃え上がってしまって、自分に問うたのです:『あぁ駄目、私の息子とは、私が一緒にいるのよ、他の人じゃなくて。』 こうして、私は仕事を辞め、家族のために尽くすことにしました。このことをクリスマスのヴァカンス中に思い出していました。皆で一緒にモルディヴにいて、フィリッポとシモーネが砂浜でボールをパスし合っているのを眺めながら、夫に言いました:『結局のところ、私たちは幸運だったわね』と。1週間に1回私はフィリッポの家に行きます。一緒に夕食をし、ヴィデオで映画を観たりします。シモーネは逆に彼のほうが練習の無いときにSan Nicolo'へやってきます:1~2日ここに一緒にいておしゃべりをしたり、そうすると家の中がやっと生き生きするような気がします。私の夢は、彼らが一緒にいるのを見ること。キャリアが終わったら、もしかしたらどこかのサッカースクールで一緒に仕事してくれればよいのだけど。たとえばここSan Nicolo'で昔のように。」 それは一つの輪が閉じるようなもの、結局、存在というものは大きな輪であるということの証明のような。 長い夏 黄ばんだ古い写真がいくつも出てきた:松林に囲まれ、芝のはげたピッチ。 「ピアチェンツァの山林にある地方、Ferriereでの夏。なんと楽しかったこと! フィリッポはいつもサッカーをしていて、山でリーグ戦に参加していました。いつだってチームで一番小さくて、でもいつも勝っていた。いったいどうやっていたのだか。その頃から、あの子はすでにダイエットに精通していました。私に言っていたわ:『マンマ、食事は軽いものにして。明日僕は試合があるんだ。』と。まさに今と同じ。最高でもチョコレートをちょっと口にするくらい。あぁなんという夏、あの夏は! 私がこう言うのはもしかしたらあの頃若かったかもしれません。覚えているのは、皆で一緒にキノコ狩りや釣りに行ったこと。でも彼らには、ボールがなければ喜んでくれなかった。皆がタレントがあると、(サッカーで)成功できると言っていました。でも私は彼らが夢を見すぎることを望まなかった:私にとって興味があったのは、彼らがスポーツをすることで悪い連中から、ドラッグやディスコやそれら諸々から離れていられるというもの。うまく行きました。学校ではフィリッポは一度も問題が起きたことがありませんでした。私に言っていました:『安心して。もし僕がクラスで1番じゃなかったとしても、2番か3番だから』と。彼はまず宿題をしてから、表へ遊びに。そしてシモーネがいつもその後ろにくっついて。」 大きな不安 Signora Marinaは他のどのマンマたちと同じ、強い記憶は恐れや痛みと繋がっている。 「勝利の数々は忘れません、もちろんですとも。けれど私には、フィリッポが怪我をしないことが大事。シモーネも。 フィリッポが唇を切ったときに私はモンテカルロにいて、あれにはとても苦しみました。あのときから、スタジアムにはほとんど足を運んでいません。まるで不安を常に抱えているようなものだから。去年の夏にあの場所に戻りました。モンテカルロのSupercoppa Europeaでフィリッポがゴールを決めたとき、そこに。まぁ挑戦のようなもので、タブーを覆すことができました。でも信じてください、常に緊張し続けているのです:フィリッポがミランと共にTokioでクラブ世界カップを獲得したとき、12月16日のあの日私はまるで復活祭のように幸せでした。その時から数時間でシモーネも試合しなければならなかった。故障から復帰したばかりで、私は心配していました。何かの予感のような:実に、そこで肩を痛めたのでした。無駄ですね、親をやると、心穏やかでいられることは一瞬も無い。」 フィリッポがシングルであることに関しては? 「私にとっては、彼がやることは何でもいいのです。でも正直なところ:いいお嬢さんを見つけて、恋をして欲しい。いつまでも一人でいないように願っているし、誰かと長い人生を共にしていくというのは素敵なもの。私と夫がそうしてきたように。でも私が無理強いすることもできるわけでなく。今のところ、トンマーゾの叔父さんであることで充分のようです:シモーネの息子にはとてもとても優しい。まるで彼の実際のパパのよう。」 最後に、この会話の締めに。 「ほら、ここを見てください:フィリッポがゴールした時の写真。日付が書いてあります:1983、これは10歳のときですね。」 歴史の中で、何も、もしくはほとんど何も変わってはいないかのよう:今や彼をすべての人がPippo(またはSuperpippo)と呼ぶ。あの頃はまだ、ピアチェンツァのSan Nicolo'のフィリッポ・インザーギ少年でしかなかったのだ・・・ 記者:Andrea Schianchi Gazzettaのこの記事への読者コメントからちょっとご紹介: ●もし彼がRooney、Ronaldo、Van Nistelrooy、Ibrahimovic、Kaka'、Totti,Del Piero・・・のような足を持っていたら・・・。あんな(才能があるとは言えない)足で・・・、こいつはなんてやつだ。そして彼の仕事の倫理といったら。 PIPPOMIOOOOOO!!!!!! ●Marinaの想い出を読んでいたら、目に浮かんできた・・・あのピアチェンツァの山の夏を、Borgonoveseとのデルビーを。俺は同じ地元の者で、ピッポやシモーネと同じチームでサッカーしてた。なんてったって誇りを感じるよ。Abbraccio! ●ピッポでもフィリッポでもいい、とにかく日曜にスーペルピッポが戻ってくれば!!! ●インザーギ兄弟はピッチでもその外でもゴールを決める・・・ガッリアーニが「貴方はミランのどの選手になってみたいと思いますか?」ていう質問に答えてたのを思い出す。「インザーギ。 私がそう答える理由を説明しよう・・・」て。 ●ユヴェンティーノとして言わせてもらうと、こんなに嬉しいことはない。この青年は怪物と呼ばれたことがない、でももしInzaghinhoという名前を持ってたらバロンドールを受賞しただろう。ところが彼は、出場したすべての大会でゴールを決めて勝利している。 ●なんて綺麗なマンマなんだ。なんつったらいいか、俺もピッポになりたい! ●俺にとってはいつまでもSUUUPERPIPPO!! だけど俺はインテリスタだけど。 ●Oioioi oioioioi Pippo Inzaghi segna per noi... 君がグランデミランと共に獲得してきた勝利とマジックに感謝する。 心からありがとう。 ●真のミラニスタたちにとって、Superpippoが出ない試合は試合じゃない。どんなときでもあの鋭い爪で試合をなんとかしてくれる唯一の男、いるべき時に、いるべきところにいつもいる。俺たちに夢を見せてくれるためにまた戻ってきてくれ、記録を作るためにまだ10個ほどゴールしなくちゃだぞ。 ●もちろん、フィリッポで結構です。あなたはお母さんなんだ、好きなように呼んでください。でも僕にとって、他の皆に、特にミラニスタにとって彼は永遠にPippoであり、そしてSuperpippoになった。どれだけミランの危機を彼が救ってくれたことか、嘆かれることもなくユーヴェから捨てられ(後になって後悔されているが)、僕らTifosiからすぐに気に入られ、それだけでなく重要なゴールをたくさん決めてくれた。もちろん男としても真面目な態度で。 ありがとうピッポ、今年のチャンピョンズリーグの試合で待ってるぞ。 ●マンマと息子が同じセリフをしゃべっているのがとてもいい。俺の母親も繰り返してた「勉強してから、それから広場でサッカー」って。どこにサッカーしに行くにも、テスト受けに行く時も、「怪我しないように」ていうのが決まり文句だった。とにかく、Signoraとご主人におめでとうと言いたい。世界一のアッタッカンテにも。当然、シモーネは兄のようにはなれない・・・だって、ピッポ・インザーギは他に存在しない、たった一人しかいないから。 ●2月20日水曜の20時45分にやらなくちゃならない宿題を忘れるなよ、わかったか? この最後のコメントが最高にナイス。
by celeste13zefiro
| 2008-02-09 00:15
| MILAN
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